Lucy Maud Montgomery
(ルーシー・モード・モンゴメリ)
 
  1874年11月30日、カナダのプリンス・エドワード島クリフトンで生まれる。
モードが1才9ヶ月の時に母クレアラが病死したため、母方の祖父母アレグザンダー・マクニール夫妻に預けられる。
マクニール家の農場は、プリンス・エドワード島の北海岸キャヴェンディッシュという小さな開拓地にあり、大西洋の浜辺へは1キロたらずのところでした。この農場でモードは育ちその半生を過ごしました。
1890年から1年間プリンス・アルバートンの父のもとに引き取られます。字を書き始めて以来、何よりも書く事が好きだったモードは、このころ初めて自分の作品が活字になるという幸せな経験をするのです。
結局キプリンス・エドワード島にもどった彼女は、大学で教員資格をとり、教師の仕事につきました。その後も自作の詩や物語を雑誌社に送り続け数多く懸賞金を獲得しています。1898年祖父の死去により、一人残った祖母のためキャヴェンディッシュにもどります。その後13年間、祖母が亡くなるまでの年月をキャヴェンディッシュですごします。1906年には長老派の牧師と婚約をしますが、祖母が彼女を必要とする間は結婚できませんでした。教師を続けながら文筆活動も続け、文筆により当時の女性としてはかなりの収入を得るまでになっていました。そんな中生まれたのが「赤毛のアン」です。
1911年3月祖母の死により、同年7月4日ユーアン・マクドナルド牧師と結婚します。結婚後夫妻はオンタリオ州リースクデールの牧師館におちつきます。ここで二人はユーアンが1926年にノーヴァルと云うトロント近郊の村に招聘されるまでの15年間を過ごします。そんな中1912年7月に長男チェスター、1915年10月には次男スチュアートと二人の息子に恵まれます。牧師の妻として、二人の子どもの母親として、そして作家として多忙な毎日でしたが著名な作家のわりには気取ったところも、高慢ちきな態度もないモードは村人にとても敬愛されていました。
しかし、牧師の夫が憂鬱に悩まされているのを周りの人々は気付きませんでした。それはモードに重い荷を負わすことになるのです。
一生を通じてモードは、魂にあらたな息吹を与えるためにプリンス・エドワード島を必要としました。結婚後も何度かプリンス・エドワード島を訪れています。かつての我が家の朽ち果てた姿には、悲しみも味わったようですが、昔の様に馬車による散策を楽しみ、のんびりとほっつき歩き、魂に心地いい刺激を受けたようです。
彼女の文筆活動に対して、1923年にカナダ女性初のイギリス王立芸術院の会員に推薦され、1935年には大英帝国勲章を授けられました。
1930年代後半では、夫の精神的な病もひどくなり、第二次大戦の悪化による精神的な心労もかさなり、モード自身健康を損ねていきます。1942年4月24日、モード・モンゴメリ・マクドナルド はついに逝去しました。彼女の遺骸は彼女の魂の故郷であるプリンス・エドワード島のキャヴェンディッシュの小さな墓地に埋葬されています。翌年12月に亡くなった夫ユーアンも同じところに葬られました。モードの追悼式の日、モードとユーアンの結婚式を司った牧師により、復活を題材とした彼女の詩「夜警」と「アンの友だち」が朗読されました。

モードは手紙の中で書いています。「『人は生まれ変わるものだ』そうわたしは自分に言い聞かせます。『一度だけではない。人は何度でも生まれ変わるだろう、もしそれが本当ならこの私がふたたび若い娘となって生きる日が近づいているのではないだろうか』と」。彼女の描いた少女達は、1世紀近くを経た今でも生き続けています。
 
   
  Last Update : 26 Jun 1999